長者原遺跡

長者原遺跡復元模型

「都筑郡家想定復元模型」
長者原遺跡の発掘成果をもとに、8世紀はじめごろの様相を復元したもの

荏田猿田公園

現在は荏田猿田公園

荏田西に、かつて古代の武蔵国都筑郡の役所である郡衙(ぐんが)が存在していました。
古代律令制度の下では、全国を国に分け、その下に郡、郷、里を置いた。国の長である国司には中央豪族が任命され、郡の長である郡司には地方の有力豪族が選ばれました。その郡司が陣取った役所が郡衙です。

遺跡は東名高速道路をはさんで約200m四方の広範囲におよび、東側の丘陵の中央部では、7世紀代の長大な建物をL字型に配置したものから8世紀代の正殿と脇殿を品寺型に配置したものへと変遷する大型の掘立柱建物が発見されています。
ここは役所の中枢部である「郡庁」とみられます。西側の台地には農民から徴収した稲穀などを収納した「正倉」、南側には給食施設である「厨(くりや)」、役人の宿舎である「館」がありました。
遺跡内からは都築郡を示す「都」の墨書土器の他に様々な遺物が出土しました。

都筑郡衙がなぜここの場所に選定されたのか。長者原遺跡は荏田古墳群に位置し、市ケ尾古墳群に隣接しています。おそらく、両古墳群の系譜を引く集団の首長は、群司の一員となった可能性は大きい。
しかし他の要因も考えられます。北側の谷のすそを通る国道246号の沿線には古墳が分布し、古墳時代からの地域の交通路でした。8世紀には東海道となっており、郡家と郡家を結ぶ道であったと推測できます。
一方、谷本川、鶴見川、早渕川の河川交通によって郡内の各集団を結びつけることができる所です。陸上交通、河川交通とが交差する要衝の地が、役所の置かれた大きな要因と考えられています。

どのような理由で都築郡衙が荏田に存在していたか定かではないが、荏田に古代横浜の役所が成立し、有力豪族がこの地に存在していた事実は変わらない。

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