驚神社と石川

驚神社

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創立は不詳ですが奈良時代に造られたとの伝承があり、石川牧の鎮守と言われています。昔この地域は牧場があり、名馬がよく出た場所から、「馬を敬う」の二字を合成して「驚」となったという名称由来の説があります。石川村の鎮守であった故か、秋祭りには早淵川の上流の谷戸(保木、平川、荏子田、船頭牛込)の社から神輿と山車がこの驚神社に集まり、その時に奉納されるのが牛込獅子舞です。

驚神社

戦時中、昭和12年から21年にかけて9年間祭りは事実上中止となり、その代わり驚神社は戦時中別の役割を果たすことになります。それは出征兵士の出陣式と戦勝祈願の儀式です。次第に簡素化されていったが初めの頃は随分盛大に行われたようで、家族身内、青年団、消防団、国防愛国婦人会、一般の人が参列し、花火が上がり楽隊付の行列で現在の246号線の川崎境まで送られたと言います。このように驚神社は戦時中に多くの若者を送り出し、そしてその多くは帰らぬ人となってしまいました。

敗戦を迎えた石川地区はかつてない活気を取り戻していきました。若者が戦地から続々と帰還し、インフレによって農家の多いこの地にとって一種の新円ブームをもたらしました。
深刻な食料不足はヤミ価格を生み、東京・川崎方面から買い出し部隊が毎日、中村地区を訪れ生産物を買いあさったため、現金収入の少ない静かな農村地帯のこの地区は、比較的豊かな戦後を経験することになりました。
しかしインフレがその貨幣価値を下げ、貧しい農村生活が改善するまでには至りませんでした。
社会情勢が安定してくるにしたがい、静かな農村生活が戻ってきて、生活の安定が人々の心を驚神社に向かわし、そうした気運がやがて驚神社の祭りの復活につながっていきました。

驚神社

区画整理が行われ始める頃には、若者の関心も都市に向けられ、農業に従事する者が少なくなっていきました。耕す農地も次々と宅地化されていった為、農村社会は崩れていきました。
昭和42年に田園都市線が開通すると当地は「村」から「街」へと様相を一変させます。人口も1万人を超え、新住民の数に圧倒されていきます。村の氏神様であった驚神社は祭りを担う若者を都心にとられ寂しさを増していったが、元旦、七五三詣で新住民の参拝者が急増しました。
区画整理が進む中で驚神社の周辺は緑が少なくなり、すっかり都市型の神社と変わりました。

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