中村地区は現在のあざみ野駅周辺で行政、商業、教育の中心でした。明治5年、驚神社の近くに石田屋という何でも扱う商店が開業し、米穀・味噌・醤油・砂糖の食料を主とし、呉服・荒物・陶器など、生活必需品などを扱っていたそうです。
隣接の高津区、多摩区、港北区の中川よりたくさんの人が買い物に来たそうで、以後大正から昭和にかけて続々と店が並びました。理髪店・種苗屋、ランプ屋、大正に入ってから鍛冶屋・お茶屋と商店が建てられ、戦後一大商店街に発展したそうです。
昭和2年に横浜北農協山内支所のところに村役場が建てられ、昭和12年に山内尋常小学校が誕生し、中村地区は山内村の中心となりました。
地形的には石川の他地区と同様、雑木林が6割方占めており昔から田畑が少ない地区でしたが、土質は石川の中でも「上の部」に属しているといわれていました。
早渕川が地区の中心を貴流し左右に小高い丘陵地形をなしています。開発以前の昭和30年代中村地区は50戸余りの集落で、山内小学校裏の「上講中(かみこうじゅう)」、県道沿いの「中講中(なかこうじゅう)」、荏田境の「下講中(しもこうじゅう)」に分かれていました。特にその中で、中講中は村役場、小学校、商店街が並び石川の中心をなしておりました。
夏には赤田谷戸(現あざみ野南)でホタルが飛び交り子供達の人気の的でした。また金蘭、銀蘭が咲き、紫しめじはとても美味しいと有名だったそうです。
創立は1559年で、開基は純能法師と言われるが江戸末期以前の活動状況はほとんど判っていません。これは1845年に火災に遭遇してその全てを失ったためと言われている。火災の原因は江戸の旗本が当地を訪れ、美しが丘の辺りで花火大会を催す事になりました。見物客もたくさんいる中、その火が西勝寺の屋根に落ち、瞬く間に全焼したそうです。その後再建は順調に進み、1863年に本堂の落成をみました。
地域の要としての西勝寺の役割も大きく、明治初期の玄乗法師の頃は、様々な農村社会の中で文化の中心でした。若者達の集う場、子供達を相手とした裁縫教室など役割は多かったが、他の寺同様に公設学校の誕生後、寺の役割は減退していき西勝寺も地域への影響力は少なくなりました。