牛込地区

牛込地区は早渕川の「平崎橋」から「松本橋」あたり両側一帯で、現在のあざみ野1丁目、4丁目、美しが丘5丁目周辺である。
松本橋近くには松本水車と呼ばれた水車がありました。戦前までこの近くで 「雨乞い」が行われていたようで、日照りが続くと御神水をもらいに東京の井の頭へ行き、水を受け取って真っ直ぐ牛込へ戻ってくる。途中で休むとそこに雨が降るとされ、休まずに帰ってきたそうです。この御神水を使い当時の人たちは雨乞いの儀式を行ったと言われています。

神明社の獅子舞

神明寺

牛込地区の代表的な物として、神奈川県の無形文化財に認定されている神明寺の獅子舞があります。その姿は1人立ち3頭獅子と言って獅子頭を頭につけ腹に太鼓をしばり、これを叩きながら長笛と太鼓に合わせて3頭の獅子が華やかに踊り獅子舞には9人の少年が関わり、いずれも牛込地区に生まれた男に限られています。

この獅子舞の歴史を伝える古文書はほとんど残っておらず、いつから伝わってきたのかは不明であり、獅子頭などの道具類には何の「しるし」がないことから300年近く経つのではないかと言われています。また装飾用の花から300年ぐらい前の様式のようで、太鼓を叩く時、バチを同時に叩くこのやり方が相当古い方式。牛込地区になぜ入ってきたのかは不明です。
ともかく、この獅子舞は人々から悪疫が村に入るのを防ぐと信じられており、今日まで牛込の人々に受け継がれています。毎年当クラブに於いても地元の獅子舞をお招きし、集まって下さった近隣の方々と一緒に、悪疫が入らない様清めてもらっております。

満願寺

満願寺

正式な名称を金剛山成就院満願寺といい、満願寺バス停近くの高台にあります。
山号の金剛寺とは金属の中でも最も堅い物の山という意味で、これは満願寺が建っているところが、岩盤で成っていることから称せられたと考えられ、寺がいつまでも滅びないという永久存立の意味が込められているようです。
院号の成就院は「成し遂げる」、満願とは「神仏に日数を限って祈願し、その日数の満ちること」という意味を表しています。これには「永久的に物事を祈願し成し遂げる」といった思想が込められていると考えられる。昔から山内の人々に「満願寺は古くて格式の高い寺だそうだ」と言い伝えられており、約400年前に存在したと言われています。

徳川秀忠

またこの寺は徳川2代将軍秀忠と、その妻である崇源院(お江)の位牌があり、これは満願寺が徳川家の菩提寺である芝の増上寺の裏鬼門にあたる地から、守護の役割を与えられていたことによるもの。そのため徳川家から、仏餉料として何がしらの土地が与えられており、石川村は増上寺の山内(さんない)に年貢を納めていました。この山内(さんない)とは寺の内、境内と言う意味で、これを訓読して「やまうち」となり、山内村はここからきているという説もあります。

天学教

満願寺とともに、明治以降石川の住民の精神的よりどころで、当時幕末の混乱期であり国家体制の不安から各種の新興宗教が誕生した。それらは、古代以来の神道の歴史的背景を受け、仏教、陰陽道、儒教などを習合した教義、儀礼、行法をもっており民俗宗教の神社から離れ、広範な民衆を組織しました。それが天学教会です。

天学教

明治後期から大正になると、天学教は最盛期を迎え本院は石川の30〜40%に及ぶ信者、そして遠くは三多摩からの信者でごった返したそうです。しかし戦後の神道離れ、昭和30年代から始まった周辺の都市開発により、信者のほとんどが農業を放棄してしまい、農民救済に重きをおいていただけに、この都市化は天学教の基盤を崩していきました。

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