船頭地区

船頭地区は平崎橋より南西に延びる道路の左右にまたがる地域。この地は板碑(石碑の一種)の宝庫であり、室町末期から戦国期にかけて、石川の中でも有力者層が居を構えていたと考えられています。
船頭の地名は石川村と荏田村の水争いの時に、石川一帯が水浸しになり、舟を造り漕いだことが由来と言われています。

このような由来を持つ船頭ですが、雑木林の多い石川でも特に多い地域で7割近くが山林でした。
樹木の種類は「べえら」と呼ばれる雑木が多く、住民の燃料用として貴重な存在でした。戦前は「松」も多く戦時中の石油の代替として、松根油(しょうこんゆ)に供されました。これは山内中学校の旧校舎に駐屯していた兵士の手によって松の根が掘られたといいます。
「杉」も多くその用途は、主に船材として戦時には大変貴重なものだったそうです。しかし現在では松も杉もほとんど見られなくなってしまいました。

雑木林であったので鳥や小動物も数多く、キジ、コジュケイ、山バトがハンターの猟場となっていました。小動物はウサギ、ササクマ、ムジナ、キツネ、タヌキ、野ネズミなどが生息し、タヌキは現在でも見かける事もあるそうですが、その他は鳥とともにほとんど見かける事はできません。

また昭和初期まで船頭地区で「ウサギ狩り」が行われていたそうです。
「猟」は7〜8人で組を作り、明け方に山に入り、ウサギは夜行性であるため、寝込みを襲うというもの。狩猟方法は幅1メートル、長さ20メートル前後の網を張りウサギを追い込むのである。ウサギは群れをなすことなく、またどの山に入ったのかの判断が難しいらしく、捕獲はせいぜい1日に1匹で、捕れない日の方が多かったそうです。時代が進み開発が進むにつれその姿はほとんど見る事はできなくなりました。

ページトップへ