近世の石川

崇源院

近世に入り徳川家康が江戸幕府を開き、横浜北部の村々は江戸が近いため、当初は幕府の直轄地が多くありました。その後天領、旗本領の入り交じった支配となります。
石川村は芝の増上寺領であり、徳川秀忠夫人、崇源院(お江)の化粧料地となりました。この化粧料地は、その後御霊屋(みたまや)料地となります。

石川村は武蔵国都筑郡の北に位置し、東は橘樹郡の有馬村・土橋村、西は王禅寺村、南は荏田村・大場村・黒須田村・鉄村、北は橘樹郡下菅生村に接していました。 石川村の一番上の保木からは早渕川が発し、南東に向けて流れ、1里(4キロ)程で荏田村に入っていきます。石川村全体が一つの大きな谷戸であり標高は20〜95メートルと大変起伏の富んだ地形でした。

石川村の石高(村の米穀などの生産量)は500石(1644〜1648年)で、その後921石(1848〜1854年)に倍増しています。石川村の家数は風土記稿*などによると267戸(1818〜1830年)、270戸(1848〜1854年)とあります。

石川村

近世の石川はいくつかの小名(こな)と呼ばれる小集落によって構成されていました。保木、荏子田、平川、船頭、稗田原、牛込、下谷、中村。その中で一番上の集落の「保木」と一番下の集落の「下谷」に、保木村・下石川村の標記のある石造物が存在している。 このように小名を村名のように記されているのを「緑区史」では「村の中のムラ」と称しています。保木や下石川は石川の地域の中で、独立性が強かったのではないだろうかと考えられています。

1734年、増上寺輪番役人が寺社奉行へ提出した鉄砲書上帳から、近世の石川村を知る手がかりがあります。これによると春に石川村、王禅寺村、川和村、荏田村へ16挺の鉄砲を貸し出し冬に返却させたというものである。この年石川では猪3頭、鹿4頭を仕留めたそうで、山や畑が多かった石川では、猪や鹿が多く生息し田畑を荒らしたものと考えられますが、現在の風景からは想像がつきません。

日本史年表

1600年 関ヶ原の戦い
1603年 江戸幕府が成立
1615年 大坂夏の陣で豊臣氏滅亡
1637年 島原の乱
1702年 赤穂浪士浅野の仇討
1707年 富士山が噴火
1782年 天明の大飢饉
1821年 伊能忠敬日本地図完成
1853年 ペリー来航
1863年 薩英戦争
1867年 大政奉還

世界史年表

1602年 オランダが東インド会社を設立
1618年 ドイツ三十年戦争
1636年 清を建国
1687年 ニュートンが万有引力の法則を発見
1707年 大ブリテン王国が成立
1776年 アメリカ、独立宣言
1789年 フランス革命
1804年 フランス、ナポレオン皇帝即位
1840年 イギリスと清の間でアヘン戦争
1853年 ロシア、クリミア戦争
1861年 アメリカ、南北戦争

*風土記稿とは江戸時代後期を中心に郡村概況を記した地誌である。
村単位で、地形、戸数、人物、自然、神社、寺院、名所、伝説など多岐に渡って記述されている。

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